中の人の徒然草443
数学の証明も知的ツールとして優れているのですが、静的で宣言的すぎるような気がします。紙に書いたり頭の中で展開したりしたとき、F#のようにすぐに実行して実データを検証できません。また、細かな論理を記述するのに向いていないような気がします。それも私が技術者だから感じる事なのかもしれません。
技術者はその理論が常に現実に役立つかを考えます。現実に実行できないような理論を構築しても意味がありません。それに、手早く確認できるかなども考えてしまいます。といっても、数学を軽んじているというわけでもありません。まだそれほど学習していませんが、数学は一通り学習しようと思いすでに準備しています。幾何学・解析学・代数学・集合論はやります。他にはあるのかな?あったらやるかもしれません。
私は数学を楽しんでやっています。学生だった頃はさほど好きではなかったのですが、大人になってからその魅力にはまっています。受験だからやれと言われるといやですが、趣味でやる分には楽しいです。他には数独にはまった時期もありました。あとは、物理学や化学ももっと堪能したいです。う~ん、時間が足りないな。
それら自分の遊びを思い返せば、自分は自由に思考できるのを好む人間のようです。押しつけがましい勉強は嫌いですが、自分で自由に研究するのは大好きです。
今日本の教育が問題視されていますが、日本の教育は体罰なんてしていないで、知的な遊びを自由にさせたらいいと思います。私が学校を好まなかった理由は、自由に学問を堪能できないからです。型にはまることを好まない私のような人間も沢山いると思います。そういった子供に対して、カリキュラムに縛られることなく、あらゆる学問を自由に堪能できる場が与えたら、日本の生きた学力は向上するのではないでしょうか?
そもそも、学校が学問をするのに向いていないと感じさせること自体が間違っています。日本の教育機関が、本当の意味で学ぶ場になってほしいと心から願っています。現状はお受験という形式主義に縛られているような気がしてなりません。それを学問と呼ぶのは学問に対する冒涜です。
日本は全体的に、非理論的な形式に縛られていると思います。いい加減で無意味なシステムがはびこり、人を犠牲にし続けています。システムのために人が居るのではなく、人のためにシステムがあるのですから、ちゃんとしたシステムを作ることを目指すべきです。日本はルールとかシステムと創るのが苦手なのかな?
何かを変えようとする人を、日本のマスメディアはバッシングする傾向があります。だから何もしない方が得であり、結果として日本は何も変わりません。これでは鎖国のようです。形式上は開国していますが、心は鎖国していると思えてなりません。変なルールやシステムを変えず、人に精神論的な我慢だけを強いる。どれだけ犠牲が出ても一時的に騒いでお終い。これが本当に健全な社会だといえるでしょうか?
バグ(問題)が発生したら論理的に考え根本的に治す。この当たり前の行為を続けることが社会人であり、人の社会であるべきだと私は思います。いつまで子孫へと問題を先送りにするのか。私は恥ずかしいです。当たり前のことを当たり前に行う。そんな社会になってほしいです。